不安は価値の源泉

不安は価値の源泉

あけましておめでとうございます。アナグラム代表の小山です。

アナグラムは絶賛採用中でして、ありがたいことに毎月新入社員の方が入社してくれています。新入社員の皆さんとぼくとで、月に1回お話する「こやまの部屋」という時間を設けていて、皆さんの仕事の様子や悩みを聞くことができ、私にとっても非常に貴重な機会になっています。

そこで相談を受けることが多いのは「短期的な施策提案に終始してしまっている、中長期的な戦略立案をするにはどうすればいいか」「振り返りが行き当たりばったりになっていて十分に体系化できていない気がする」など。つまり「目指すべき高い仕事の水準」に対して「これでいいんだろうか?」という不安が大きいのです。

社長がこんなこと言っていいか分かりませんが、「分かる」と思います。

2015年にぼくはアナグラムに新卒入社しましたが、1〜2年目のときには同じような不安を感じていました。会社は今は120名以上いますが当時は10名ぐらいで、中目黒の小さな事務所でした。当時、クライアントからぼく宛によく電話がかかってきました。

相談内容はいろいろです。「小山さん、媒体の営業がこう言ってましたがどう思いますか?」「ソリューションの提案を受けましたがやった方がいいと思いますか?」など。

ぼくも「運用型広告」については日々勉強・研究していたつもりですが、それ以外にも幅広くいろんな相談をいただき、しどろもどろになることもしばしば。

持ち帰って人に聞いたり、調べたり、何とか自分なりの意見を伝えるようにはしていたが、マーケティング・販促の現場の課題というのは幅広く、アップデートも早い。自分は無知すぎるのではないか?どこまで知っていないといけないのか?という気持ちに常になっていました。


「これでいいんだろうか?」という不安

あれから10年。北参道にオフィス移転して、社会人経験を積み、仲間も増えて、社長の役割を任された。それでは今、「これでいいんだろうか?」その不安が解消されたかというとそんなことはなくて、正直に言うと、昔以上に感じています。

経営者には本当にたくさんの戦い方がある。

とにかく魅力的なビジョンを出す経営者、スーパーマンのように全部をとてつもない物量でこなす経営者、とにかく多動でアンテナが高く何社も並行して成果を出す経営者。

とんでもないスキームや寝技を繰り出す経営者……。

ぼくの中に「本当にこれでいいんだろうか?」という一抹の不安が尽きることはありません。

「これでいいんだろうか?」は、自分が舵を取っている証拠

新入社員の話を聞いて「分かる」と思うのと同時に、突き放すようですが「健全な不安」だとも感じます。

「これでいいんだろうか?」という心配は、自分が舵を取っている証拠です。

不安は不安でも「上や周りが押さえつけててできない」とは違ったタイプの不安。どっちの不安がいいか?と聞かれると、ぼくは「これでいいんだろうか?」の方が好きです。

なぜなら「これでいいんだろうか?」とは「自分なりに工夫する余白」の裏返しだからです。こういう「裁量がある仕事」にはやっている当事者からすると、孤独な一面があります。

当然ながら潰れてしまうまで一人で抱える必要はないし、健全な心身とチームの支えが必要なのは大前提です。

知識面のカバーについては会社として以下のような仕組みを設けています。

  • 一か月間の研修プログラム(知識の大枠と誰に相談したらいいかが理解できる)
  • チーム制(すぐに相談できる上長がいる)
  • グロースハック(改善点をみんなで洗い出せる)
  • ヘルプセンター(詳しい人に聞ける)
  • 知見共有(皆が仕事の気付きを活発にシェアする仕組み)

抱え込まずに、むしろ、人に頼りまくるべきです。会社の仕組みがあれば、フル活用しましょう。AIにもどんどん聞いたらいいと思います。

ビジネスは学校のテストと違いカンニングOKです。自分自身の知識と経験に閉じこもって一人で考え込まなくていい。むしろ、人の手を借りて巻き込んで、自分では知らない・できないことを突破して成果を出すことの方が、仕事においては大切です。

しかし、どんなに知識面のサポートがあったところで、どこまで行っても究極は、たくさんの意見から取捨選択して「責任をもつ」のは自分であり、一抹の不安はぬぐえないものです。

「自分が100%正しく全く不安もない」は危険

逆に「自分が100%正しく全く不安もない」と感じるときは危険です。何かリスクの種を見落としていると思って間違いない。

ざっと上げただけで以下のような懸念が考えられます。

  • 1つの視点に偏っているのではないか
  • 過去事例を当てはめすぎて、今の状況に合ってないのではないか
  • 過去の遺産で食ってるだけになってないか
  • 自分なりの工夫や価値がなく、替えが効きすぎるんじゃないか
  • 責任を負っているか、無責任な批評家なってないか

こうした思考停止には、組織単位でも個人単位でも陥ってしまうことがある。

だから、適切な不安は健全な証。

責任がある役割で価値を出すのは、孤独で不安な側面がつきものです。

本当にこれでいいのか?周囲でもリスクを不安視する人がいる……こういう仕事は、挑戦があり自分なりの介在価値が高い証拠。

誰かの成果をなぞるだけではない。自分なりに、状況に合わせて、取捨選択して考えて、決めているということ。自分なりの小さな冒険をしている。

逆に、視界がクリアに見えすぎて、誰の反発もない。こういう仕事だけになっていると危険かもしれません。無難すぎる、替えが効きやすい、介在価値が乏しい、陳腐な仕事になってしまっているかもしれない。

不安は消す対象ではない。不安は欠かせないものです。

しかしぼくらは、不安を「消す対象」だと思ってしまう。

その理由に「正解病」がある。これは「何か正解があるんじゃないか」という根深い思い込みです。仕事を学校の勉強か何かだと勘違いする。何か解決できる「ノウハウ」があって「専門家」がいるんじゃないか?と思ってしまうのです。

ビジネスの機会の核心は「正解」「不正解」で語れない領域にある

もちろん知識やノウハウで解決できる課題もたくさんある。

でも実際のところビジネスの機会の核心は「正解」「不正解」で語れない領域にこそあります。生煮えの仮説に突っ込んで、それを「正解」にしていく側面が強い。

例えば、リクルートが創業期にリボンモデルを必死のどぶ板営業で形を作っていったのも、ソフトバンクのボーダフォン日本法人買収も、任天堂がゲーム端末のスペック競争に一切乗らないのも、電動キックボード・シェアサイクルのLuupが市場導入後にロビイングで法整備を進めているのも(今まさに賛否両論ありますが)、まさに生煮えの仮説を「正解」にした(していっている)ということです。

ビジネスは渦中のプレイヤー目線で見ると、必ずしも「正解」を選ぶゲームではありません。後から振り返ったとき「正解だった」とか評論できるかもしれませんが、それは当事者の目線ではない。

「正解」がぱっと見で分かる商売はすでにコモディティ化しています。情報が少ない段階で進めないと間に合わない。商売は、不完全情報ゲームです。麻雀やポーカーのような、情報が伏せられた中で決めるものです。チェスや囲碁のような盤面が公開されている完全情報ゲームと違う。

見えない中で決めないといけないし、むしろ情報が少ない早い段階で決めれば決めるほど、リターンが大きくなる。一方で、安心できる材料が出そろえば出そろうほど、リスクは下がるが、リターンも目減りしていく。

あるいは、ぱっと見で「不正解」な意思決定・行動を、迂回して迂回して、全体・長期では合理的に「正解」に変えることが大事。この伏線回収が戦略です。

「正解病」にかかると事業の「面白み」は形にならない

ビジネスの機会を作るのは、経営者だけの話ではない。社員や支援会社の立場でも、今かかわる会社・事業の「狂気」「面白み」ポイントがどこにあるのか、理解ができないと、そこにフィットした仕事はできません。

社員が「正解病」にかかると、事業の「面白み」は形にならない。せっかく経営者が面白い勝負をしていても、周囲が「正解病」にかかっていては、「うちの会社はおかしい」「ちゃんとしてない」「付いていけない」のようなとらえ方になってしまう。

しかしむしろ、普通じゃない、変な部分、狂気こそが、革新性・価値そのものなのだと理解して、それを面白がる気持ちは、どの事業にかかわるにおいても少なからず必要です。(もちろん本当に変でダメな会社もあります)

そのうえで、販促・マーケティングなら、サービスの革新性を理解してもらうのに時間がかかるなら、そこを説明するコンテンツを作らないといけない。社長の熱意がないと伝わらないと思ったら取材して動画クリエイティブを作ってみるといい。それを、「正解」に沿って、ありふれたサービスと同じように広告してしまうと、伝わらないし埋もれてしまいます。

だから、ビジネスにおいては、学校の勉強とは違って「正解」「不正解」を問うのではなくて、「何を正解にしようとしているのか」と問う方が鋭いと思います。

専門性の核心は「正解がない問題に答えを出す」こと

さらに、そもそも専門家というのも「答え」を知っているわけではありません。

専門性とは「知識」ではない。専門家が取り組む課題は、知識だけで答えられるものではない。また、専門性とは「資格」でもない。変な資格はたくさんある。

専門性の核心は「正解がない問題に答えを出すこと」だと思います。

専門家のところまで相談が行くのは、多くは以下のような「正解がない問題」です。

  • 人や状況ごとの個別解、あえてベストプラクティスを崩すべき場面
  • ほとんど誰もやったことがない試み、事例がない未踏分野

専門家は「知識の限界」を知っている。「正解がある問題」と「正解がない問題」に論点を整理できる。そして本当のプロとは、「正解がない問題」に自分なりの答えを出せる人だと思います。

「専門家」と聞くとまずは医者・弁護士が思い浮かぶかもしれません。例えば医者は、「軽い風邪や頭痛の症状に見えるが、実は放置すると死に至る患者かもしれない。」という不安が常にある。違和感を見落としているかもしれない。変わった体質の人も大勢いる。常に判断に重たさがあります。

弁護士・裁判官も、どの案件でも微妙に解釈の幅があるし、裁判だったら判例として残ってしまうので1つひとつの解釈が責任重大です。

コンサルタントやエンジニアも専門家と言えますが、LUUPのロビイング・コンサルタントも、ソフトバンクのPMI担当も、任天堂のエンジニアも、当時は「正解」がない仕事だったと思います。

アナグラムで手掛ける「広告運用」もまた、他の専門家と同じく「正解」がないことが多いです。

広告管理画面でさまざまな打ち手が考えられる一方、外部環境の変化、事業の前提、媒体アルゴリズムの動きに左右される部分も多々ある。クリエイティブも大切で、右脳と左脳を行ったり来たりしてさまざまな視点がありえる。

もちろんリスクを極小化したり、まずは小さく試せるオプションは提示できる。

しかし、やはりどこかでは、未踏で不確実なことと向き合うことになります。

「専門家」とて知識に頼り「正解」をなんの葛藤もなく出せる存在ではない。

むしろ「正解がない問題」こそ専門家に相談されるので、前例のない仕事に日々、試行錯誤する側面があります。

「健全に不安」であれ

専門性の核心が「正解がない問題に答えを出す」だとすると、そこには「これで本当にいいんだろうか……?」一抹の居心地の悪さが付きものです。不安を超えるだけ調べ、考え抜き、自分なりの「答え」を出す。間違えたら、クライアントにダメージを与え、専門家としての立場や信頼も失うかもしれない。それでも答えを出して、責任を取る勇気。AIは「説明」できるが「責任」は取れません。

「これで本当にいいんだろうか…?」この居心地の悪さこそが価値の核心です。不安は価値の源泉なのです。

だから「健全に不安であること」が大事だと思います。油断せず、悲観もせず、ちゃんと不安と共にあること。

不安を消そうと、過剰に強がったりしない。

安心を得ようと極端に特定の教えに依存もしない。

かといって押しつぶされるほどには過剰には不安がらず、楽観的でもある。

ぼくは不安じゃないって死んでるのと同じだと思う。人は草や苔ではない。希望に向かって自分で歩いていける存在。そして希望の裏の側面が不安です。

「健全に不安」であれるのがいい仕事。今年もまた、会社としてもぼく自身も、そういう仕事を作っていきたいと思います。

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