ビョンチョル・ハンという哲学者の著書『疲労社会』には、性格の違うふたつの「疲労」が出てきます。ひとつは能力社会にすり減らされる疲労、もうひとつは「私たちの疲労」と呼ばれるもの。前者はうつや燃え尽きへ人を追い立て、後者は人と人の境界をやわらかくして、和解や回復をもたらすのだそうです。
本稿では、後者の「私たちの疲労」を感じたあるエピソードを起点に、「クライアントと一緒に疲れるには」という問いを考えていきます。理想論に寄りすぎず、現実的な着地点を目指して、寄り道しながら。
書いているうちに気づいたのですが、どちらかというと「疲労」よりも「私たち」のほうにフォーカスした展開になりました。
目次
「能力社会の疲労」と「私たちの疲労」
ハンの整理を、こちらの都合で大雑把にまとめると次のとおりです。
- 能力社会における「疲労」:絶えず成果と成長を求められる中で生まれる疲労。
うつや燃え尽きの引き金になり、自他の境界を強めて、人々を仲たがいさせる。たとえば、競争のプレッシャーに追い立てられて働いたあとの「疲れた…」がこれにあたります。 - 「私たちの疲労」:目的から解放された状態、いわば無為のなかで生まれる疲労。
平穏さの中で人を回復させ、インスピレーションを刺激する。自他の境界をゆるめて、人々を和解させる。たとえば、休日に友人と他愛もない時間を過ごしたあとの「疲れた〜」がこれにあたります。
この話を進めるにあたり、ずいぶん都合よく単純化しています。仕事の現場で「私たちの疲労」を感じることはあるのだろうかと思いつつ、先日、まさにそれらしき体験をしたので、その話から始めさせてください。
「!」ひとつに30分。境界線はどこかへ消えていた
ある日のクライアントとの定例会で、新しいキャンペーンの広告コピーをみんなで詰めることになりました。クライアントから2名、当社から3名の計5名で、最終的に出稿する15本のコピーを一語ずつ並べていく会です。
普段なら当社で案をまとめて持ち込み、最後にクライアントの確認をもらう流れです。ただ、その日はたまたま媒体側の文字数仕様が変わったタイミングで、過去案がほとんど使えなくなっていました。せっかくなので一緒にゼロから組み立てましょう、ということになったわけです。
会議室のホワイトボードには、語尾、絵文字、句読点、記号、人称代名詞のリストが書き出されていきました。「『!』を入れるか抜くか」「『あなた』と『皆さま』のどちらがフィットするか」「末尾を体言止めにするか言い切るか」を、5人がああでもないこうでもないと議論しはじめます。
そのうち、ひとりが手元の電卓で文字数を数え、ひとりが声に出して読み上げ、ひとりが類似業界の出稿を検索しはじめる。気がつけば「!」ひとつの是非に30分が経過していました。
このように、一丸となって取り組んだわけです。ふだんの業務よりも「私たち」感が強かったのは、やはり「ユーザーがどう反応するか」という、誰にも見通せない存在を全員が同じ目線で見上げていたからではないかとにらんでいます。
つまるところ、個人や片方の組織の判断だけでは結論が出せず、その場にいるみんなで何とかしなければいけない。みんなで素直に一緒に困ることができたのが良かったのではないかと思います。
「珍妙さ」を共有できることも、「私たち」になるための重要な条件
平日の昼下がりに、大の大人が5人、半角の「!」ひとつの是非に30分かけて頭をひねっている。俯瞰してみると、まあ変な状況ではあるわけで、その「珍妙さ」を共有できたことも、「私たち」になるために重要だったのではないかと考えています。
句読点や絵文字ひとつで人の心が動くかどうかなど、本来は誰にも断言できない問題です。それを承知のうえで、なお5人が大真面目に議論している。その「真剣さと些末さのギャップ」こそが、この場のシュールさを生んでいたように思います。
状況のシュールさに対して敏感になることで、同じシチュエーションに身を置く他者に対して、仲間意識を抱きやすくなるのではないでしょうか。ある種の共犯感と呼んでもいいかもしれません。
なので、「この人は苦手だな」と感じる相手がいたら、試しに一緒に「!」の是非で30分悩んでみる。これは案外、悪くない手かもしれません。
話を戻すと、ひとつの状況に含まれている感じ、言い換えるなら「同じ運命」に含まれている感じ。それが大事そうだということです。
「チーム」と「私たち」のちがい
あらためて「チーム」と「私たち」のちがいを考えてみると、「チーム」はその内側と外側の区別がはっきりとしている印象です。それぞれのポジションが明確に存在しています。チームメイトとして内側に居続けたいのであれば、自分のポジションに求められているパフォーマンスを発揮し続けなければいけません。それができないなら「きみはもうウチ(内)には要らないよ」とリリースされてしまいます。
「チーム」という言葉には耳障りの良さがありますが、それと同時に、どこまでもリアリスティックな排他性も感じます。
そして、会社としてやっていることはすべて「ビジネス」になるため、クライアントとの関係性はどれだけ好意的に解釈しても「チーム」としか言えないように思います。
しかし、あの日に感じたのは、そういった意味でのチームっぽさではなくて、もっと曖昧で開かれた雰囲気でした。あの日の感じを表現するのに適切な言葉は「チーム」ではなく、やはり「私たち」だったのだろうと思います。
普段の取り組みでも「私たちの疲労」を感じたい
繰り返しになりますが、まあ仕事なので、普段の業務においてはどこまで行っても「チーム的」であるべきだと思います。馴れ合いは自然発生こそすれど、あえて求めにいくものではないでしょう。
それでも、どうせなら「私たちの疲労」を感じられるシーンも、たまにはほしいと思います。では、現実問題として、どうすればよいのか。手がかりになりそうな観点をふたつ、書いてみます。
①まずは目線を合わせる:大文字の「目標」だけでなく、各人が何を求めているのかを考える
同じ目標を追いかけて(振り回されて)ジタバタしている者どうしという意味では、日々の取り組みのなかでも「私たちの疲労」を感じることはできそうです。
ただし、現実には目線がきれいに揃っているとは限りません。あくまでチームなので、前述のとおりポジションがはっきりと分けられており、各人が組織から求められていること、代理店に求めていることは、微妙に、しかし確かに違っています。
以前、先方の統括担当者に「報告がWeb広告の内容に閉じている感じがする」と言われたことがあります。コンバージョン数やCPAしか見えていなかった結果です。それ以降、定例の冒頭で事業全体の動きや直近の課題にも触れるようにしました。報告の視座を上げたことで、先方から「一緒に考えてほしい」と相談を持ちかけられる場面が増えたように感じています。
このあたりの目線が合って、やっと「同じ目標を追いかけている」状態であると言えそうです。
②定例会を議論の場として使う:「乗り切った〜」ではなく「これどう思います?」を考えつくす
昨年まで、定例会は「結論を報告する場所」だと思い込んでいました。最近になってようやく、やったこと・やることの一方的な報告よりも、クライアントと一緒に考えるに値する「問い」を見つけ出してくることにこそ価値があると思い至りました。
また、「定例会は共通の課題について一緒に考える場所でもある」という認識を持てたことで、定例会の時間の長さもポジティブに捉えられるようになりました。
あるクライアントとは週次で1時間半から2時間ほどミーティングしており、当初は「長すぎる」と思っていましたし、今も普通にめっちゃ長いと思っています。それでも、回によっては終盤に、ほのかに「私たちの疲労」に近い感覚を覚えることがあります。
まあ、普通に疲れているだけかもしれませんが。
クライアントと一緒に疲れられていますか
「!」ひとつに30分かける機会は、毎日は訪れません。それでも、目線の合わせ方や定例会の使い方を少し変えるだけで、業務のなかにも「私たちの疲労」が顔を出す瞬間はつくれるのではないでしょうか。
あなたは最近、クライアントと一緒に疲れられていますか。少なくとも、私はそう問いながら、来週もまた長いミーティングに臨むつもりです。
お疲れさまでした。
引用:ビョンチョル・ハン『疲労社会』(横山陸 訳, 花伝社, 2021)。本稿の「能力社会の疲労」と「私たちの疲労」の対比は、同書の議論を筆者の理解で要約・抜粋したものです。



