すべては「リフレクション」からはじまる

すべては「リフレクション」からはじまる

「メロスは激怒した」

―太宰治の小説『走れメロス』の印象的な書き出しです。

なぜメロスはそこまで怒りをあらわにしたのか。感じることには理由がありますから、そこにはメロスの人となりを知る大きな手がかりが隠されているように思います。

ではあなたは最近、どんな感情を観測したでしょうか?衝撃を受けて揺れ動いた、心にじんわりとあたたかいものが染み渡った。そんなドラマチックなシーンなんて、すぐには思い浮かばないかもしれません。それでも、きっと何かを感じた瞬間はあったであろうと、ぼんやり認識できるのではないでしょうか。

感情は、何かを解釈したときに沸き起こります。『自分』という特定の考え方を持った軸があり、その軸を出来事が通り抜けるとき、両者が反応して生まれるのが解釈や感情です。そうして引き起こされた感情はシグナルとなって、心の奥底にある価値観を知らせています。

対象物を反射させたとき、心の鏡は何を映し返すのか。「反射」や「内省」を意味する「リフレクション」とは、その像を繰り返し観察していくことといえます。

この記事では、あらゆる対象を通した「リフレクション」によって、自己理解を深め、持ち合わせた特性を活かすための考え方を紹介します。


心の声をききやすくするコツは「静の意思」に注目して観察すること

「あ、いま自分の心はこう感じているな」と思うとき。人は自らの内面を観察し、心の声に耳を傾けているといえるのではないでしょうか。

ですが解釈や感情はいつだって勝手に訪れるものです。止めようとしてもとめどなく押し寄せます。一つひとつを掬い上げつぶさに観察するなんて、とてもじゃないけどできないですよね。

と同時に興味のないものに感情は動きません。そこには”自分を知り適切に意思決定していくためのヒント”があるはずです。では取りこぼさないために、何ができるでしょうか。

筆者は観察対象の「静の意思」に注目することがその一つだと考えます。「動の意思」に比べて見落とされがちな「静の意思」ですが、実は往々にしてより正確に対象の特徴をあらわすと思うからです。

  • 何があっても遅刻や締切超過はしない
  • どんな相手とのコミュニケーションにおいても、決してリスペクトを忘れない
  • たとえ分が悪くなろうとも、保身のための嘘だけはつかない

このように「静の意思(本人以外が認識しにくいアクション)」でなにか思い当たることはありませんか?

もちろん「動の意思(本人以外にも認識しやすいアクション)」にもポリシーはにじみ出ます。アクションを起こすだけの理由や目的があるはずですし、なにより始まりと終わりがわかりやすいため、注目しなくても目に入ってきやすいです。

一方で「静の意思」は、切れ間なく連綿と維持されていきます。ゆえに目立ちにくく発見されづらいですが、アクションされた「動の意思」が始まって終わる傍らでずっとそこにあるものです。むしろ周囲から意識されないほど当たり前の状態として「静の意思」が外側に表れているなら、それは明らかに心がけや習慣の賜物ですよね。

さらに「静の意思(本人以外が認識しにくいアクション)」からうかがえる、「絶対したくないこと、しないこと(指針)」は先を見据えた意思決定の基盤になりえます。

やりたいことが明確でなくても「やりたくないこと」を避け続けた末に、自然と進むべき方向が見えてきた経験はないですか?先ほどの例を用いると、以下のように説明できそうです。

  • 遅刻や締切超過はしない

→「他者の時間を不用意に奪うのも、居心地の悪い気分を味わうのも嫌だ」という消去法の結果

  • リスペクトを欠かない

→「他者に配慮できない、そんな大人にはなりたくない」という反面教師の影響

  • 嘘をつかない

→「課題から目をそらして逃げる自分になりたくない」という自意識の産物

「したいこと」は一時的で具体的なものに限られがちですが、「絶対したくないこと、しないこと」はより広く、長期的な判断を支える指針になりえます。「したいこと」が点在しているとするなら、「絶対したくないこと、しないこと」は帯や面のように広がりを持って存在しているイメージでしょうか。

回避によって歩む道のりは遠回りに思えるかもしれません。けれどかかった時間は、それだけ長く同じ意思決定を積み重ねてきたことの証左です。きっと納得感も伴います。一貫して「絶対したくないこと、しないこと」であり続けたなら、それはもはや揺らがない信念といえますよね。

のちのち振り返ったときに線でつながるような点を打ち続けるためにも、この「面」を意識しておいて損はないのではないでしょうか。またそうして打ってきた点の間の意味に気づくのも、リフレクションあってこそです。

冒頭ではメロスの例に言及しつつ、感情は目印になりえると説明しました。心のパラメーターが振れた瞬間は「自分らしい価値観が埋まっていて、掘れば発見がある」。そんなポイントを知る手がかりになります。

しかし感情は浮かんでは消えていきます。最中には到底そう思えなかったとしても、あくまでいっときの気分。少なくともピークの熱量で永続させることは極めて難しいですよね。大切なサインに変わりないものの、刹那的である側面は否めません。

とするとよい観察のためにはやはり、わかりやすい「アクション」だけでなく対象の「静の意思」を解像度高く捉える必要があるのではないでしょうか。行動では一時的に踏ん張れたとしても、意思でごまかしはききません。意思は人生においてずっと根底に流れているものだからです。

一目瞭然の「アクション」からはたしかに強力なヒントを得られます。ですがさらに「静の意思」にも着目すれば、すべてが観察対象に変わります。

ものさしができれば、取捨選択が捗る

心の在り方に目配せしながら内なる声に耳を傾けるほど、自己理解は厚みを増して立体的になっていきます。生まれた解釈や感情を捉えて言語化し、価値観を発見する。その積み重ねが軸となって自分のコアが見えてくるのです。具体的に先ほどの例で考えてみましょう。

心の声→価値観を導く例:

  • 他者の時間を不用意に奪うのも、居心地の悪い気分を味わうのも嫌だ

→今さえよければ良い、ではなく「のちのちも望ましいか」を念頭に置いている(長期的視点)

  • 他者に配慮できない、そんな大人にはなりたくない

→一人でできることの限界を知り、他者との調和を重んじている(倫理観)

  • 課題から目をそらして逃げる自分になりたくない

→自己成長のためには、理性的であらねばと考えている(論理的思考)

上記の価値観から導かれる「軸」:

  • 長期的に論理と倫理のバランスを保っていきたい

それぞれ違う場面で聞こえてきた心の声。このように重ね合わせながら省みると、中心に横たわる価値観や軸が浮かび上がってくるように思いませんか?

葉が枝に、枝が幹に、幹が根に、とつながっていくように。より大きく広範囲に影響する軸を手繰り寄せてみてください。

当然どのように解釈するかには幅があり、癖も排除できません。けれどそれも含めて自分だけの「ものさし」です。ものごとを測る尺度になります。集めるほど、自分にとって必要なことが見極めやすくなるはずです。

例として、ここでは会社選びについて考えてみましょう。

アナグラムでは、現場に売り上げノルマが課されていません。かわりの評価項目はいくつかありますが、なかでもクライアント貢献に対する指標としては、「顧客満足度」を設けています。

これをきいて、どんな感想を抱くでしょうか?

過去にノルマによるプレッシャーを感じた、自社都合によって必ずしもクライアントの利益にならない提案を余儀なくされた、など。そんな経験があれば「ノルマがないなんて快適そうだな」と思うかもしれません。

反対に目標があると張り合いが出たり、ミッションが明確なほうが迷いが消えたり、といった心境に覚えがある場合。「ノルマがないとかえって過酷そうだ」と感じるかもしれませんね。

感覚に正解不正解はありませんし、実際にはどちらに近い局面もありえます。ですが少なからず「快適だから難しく、過酷ゆえに奥深そうだ」と捉えるとき、アナグラムの環境をもっとも楽しめるのではないかと筆者は思います。わたしたちは、だからこそ飽きない商いができ、結果として空きのない引き合いをいただけると考えているのです。

もちろん、快適か過酷かを決めるのは主観ですから、どんなタイミングや割合でどちらを強く感じるかは人によって違うでしょう。そこで発見する他者との違いもまた、よい観察対象です。差分をじっくり見つめることによって「ものさし」はさらに磨かれ、また新たに発見することもできそうですよね。

「人は鏡」という言葉があります。「鏡」をどんなものと捉えるか次第で響き方は変わってきますが、ここでは「人は相手の中に自分の姿を見ながら自身を知っていく」と咀嚼してみます。

人は誰でも、自分を通すことでしか知覚できません。目の前で起きたことに対する認識も、実は自身のフィルタによって加工されたあとのものです。であればその結果生まれてきた解釈や感情は、自らの世界の見方を象徴しています。悲観・楽観は心のコンディションや傾向によって変わるものではなく、そもそも脳が見せている世界からして違うのです。

こう考えると、他者との交流はすべからく、相手を観察しているようで自分を知るサイクルの一つなのだと思えてきます。硬い石の輪郭も川を流れる過程で緩やかになるように、適度な摩擦や衝撃によって世界の見え方が変わった経験は、誰にもあるのではないでしょうか。よく手入れされたフィルタやものさしは、さらに良質な気づきや選択をもたらしてくれます。

現状を受け入れてはじめて、自分として生きる準備は整う

リフレクションとは、自分と向き合う姿勢そのものです。ときに苦痛を伴いますが、他者と、それ以前に自分自身とよりよい関係を築きたいのなら避けては通れません。

内省する過程でものさしを認識できても、あまり気に入らないことだってあるでしょう。好ましくない欠点だと感じるかもしれません。ですが大切なのは、まず受け止めることなのだと感じます。凹凸をまるごと受け入れられれば、自分でいることに許可がおりるからです。それはきっと「自分になる」ために必要なことです。

いうなればリフレクションの醍醐味は、"諦観"=フラットな状態に立ち戻ることにあります。

自分は自分でしかないのだと、今の状態を明らかにして認めること。その後ジタバタするとしても、まずはそこからです。現在地を知るから次にいけますし、成長のための通過点にもなるでしょう。意外なことに、すでに十分だった、と「足るを知る」やもしれません。

前提として、自らの癖を理解してゆがんだ解釈をしない注意は必要です。「便りがない」ということを良い知らせと受け取るか、悪い傾向だと捉えるか。いずれにしても個性ですが、「自分はこういう見方をしがちだな」と認識しておけば、いくらか客観的になれます。

とりわけ観察対象が自分でない場合は、無理に解釈せず、あくまで事実の観察に留める選択肢も持っておけるとよいでしょう。他者の内面は推し量ることこそできても、正確につまびらかにすることはできないですよね。本人にすらわからないときだってあるぐらいなのに、渦中にいるとこの事実を忘れてしまいがちです。

質の高いものさしを見つけられるかは観察の目にかかっていますが、そのためには多種多様なインプットが欠かせません。アウトプットは、何をインプットするかによって変わってきます。同じ場所でも目線を30度上げただけで見える景色は違いますし、状況が許せば環境ごと変えてみるのも有効です。

いくつか注意点を挙げてきましたが、何より大切なのは"一次情報"としての心の声を無視しないことです。沸き立つ感情があるのなら蓋をせず感じ切ってみましょう。過程が結果へ、臨場感ある体験が客観的な要約へ、とまとまっていくなかで、心の声はしばしば効率の網から零れ落ちます。ついぞ見えなくなってしまうのも珍しくありません。一次情報を拾い上げられるリフレクションは、それゆえに大きな意味を持ちます。

良質なリフレクションは各々の特性を磨く鍵です。世界を切り取るフィルタや、尺度としてのものさしは、そうして洗練されやがてそのものが武器となります。

行き先に迷ったときは、どうせならたくさんの感情=”一次情報”に出会えそうな場所に身を寄せてみるのも手ではないでしょうか。楽な道のりではないかもしれませんが退屈せず、振り返ったときにはしっかりとした線でつながれた軌跡が確認できるはずです。

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