シンプルだからこそ、バッターボックスに立ち続けることが大切。アナグラム創業秘話の全貌を公開
アナグラムのメンバーもごく一部しか知らない、アナグラムのすべての始まり。みんなが気になりつつも聞けなかったアナグラム創業秘話を創業者の阿部さんに単独インタビューいたしました!アナグラムを立ち上げた経緯とは一体?

―― 独立される前はWEB制作会社でディレクターとしてご活躍されていたかと思うのですが、リスティング広告に出会ったきっかけを教えてください。

元々は集客ではなくて制作側のディレクターとしてECの構築から運営全般に携わっていました。その時に集客側のディレクターが退職することになり、急遽リスティング広告を学ぶこととなったので、そこがはじめての出会いですね。

当時(2003~2004年)は楽天が上場して数年たち、多くのネットショップが楽天にショップを開き出すなど第二次ECブームのような雰囲気でした。今聞くと大げさな!と思うかもしれないけれど、当時のウリ文句は「ネット上にお店を出しませんか?」だったんですよ。路面店だとお店の前を通る人しか来ないけど、ネット上だと世界中からオファーが来るという触れ込み。まぁ実際にはそんなことないんだけどね。

一方、今と違ってカートシステムとかも選択肢が少なかったし、SEOは外部リンクが主流だった時代なので、世の中は内部構造を真面目にやるよりもリンクを貼ろうよという風潮でした。僕としては、いつかは外部リンクも効かなくなるだろうって予測はしていて、当時の会社は成果報酬型でお仕事を頂いていたので、万が一リンクが飛んでしまうと双方困る。なので、内部構造を手がけながらサイト構成やLPをひたすら作っていました。

集客の手前までは全部やっていたので、何を言われても大体はわかる状態だったかな。その会社で受注していたリスティング広告100案件ほどは、僕が携わることになるまではマージンを抜かずにすべて某大手広告代理店に委託してましたね。

―― 手数料無しで!

当時は詳しいことはあまり理解してなかったけど、今思えば売上は立つから与信は出来るんだよね。前職の社長は元々金融のプロフェッショナルだったので、上手いことやってたんだなぁと今思えばなんだけど。

そんなわけで、集客側のディレクターが会社を去ることになって、ディレクターが僕一人になってしまうタイミングでこれまでお願いしていた大手の広告代理店との打ち合わせに一度同席したんですね。当然、専門用語が多くてCPAだのTDだの何を言ってるのかはわからないんですが、その担当者が嘘を言って誤魔化そうとしているなということは肌感覚でわかった。でも、言っていることが分からないから論破ができない。

そこで、次の打ち合わせまでにこの担当者より詳しくなってやろうと決意してAmazonで発売されていたリスティング広告の本をぜんぶ買いました。その頃は4~5冊しかなくて、管理画面のキャプチャも実際と違ったりとツッコミどころは多かったけれども専門用語や本質的なやり方は理解できたので良しとして、次の打ち合わせに赴いたら、、、まあほとんどがウソだった。

その担当者よりも自分の方が既に知識があるなと理解したので、社長へ打診していくつかリスティング広告の案件をもらって運用を行いはじめたところ、全てのアカウントで売上も成果も3倍以上に。

その頃は、予算が減るので誰も除外キーワードなんて入れていなかったし、契約解除しますって伝えると翌日からぐんぐんコストが上がっていく嘘みたいなことがまかり通ってた時代だったので、自分たちでリスティング広告の運用代行業を請け負い、きちんとした運用を行ったら今以上にいけるぞ!と確信しました。

―― 収益性もあるし、その頃はリスティング広告がじわじわ伸びてきている時代ですよね!その後、広告代理店にお任せしていた案件をすべて自社で運用するようになったのでしょうか。

それがそうでもなくて、全部面倒見るからリスティング広告運用の部署を作ってくれと社長に直談判したんですが、すげなく却下されてしまったんですよね。お金の嗅覚がとにかくするどい社長だったから乗ってくると思ったけれど、WEB制作がメインの会社だったので商流が変わる事業は面倒くさかったんだと思います。

まさか断られるとは想定していなかったので、反射的に「じゃぁ、辞めます」って言葉が出てしまって。で、独立しました。

―― あれ?そこでいきなり独立に!?

とはいえ確信犯で、自分が辞めたらそこの会社でリスティング広告の運用ができる人はいないからこっちに依頼がくるというところまでは未来が見えてました。会社が持っている100案件のうち20案件くらいを会社で請け負っている手数料半分くらいを報酬としてもらえば食っていけるなと試算済み。実際食べていける状態になったので、しばらくはフリーランスとしてやり続けていましたね。

―― アナグラムを設立してから3年近くは引き続き阿部さん一人でやられていたと伺っていますが、フリーランスから法人へと身を転じたきっかけは何かあるのでしょうか。

この時期に個人で運営していたブログに出版社からオファーを頂いてGoogle アナリティクスの書籍を書くことになりました。著者の肩書がフリーランスってあまりいないなぁと。当時はクラウドソーシングなんてないし、フリーランスはフリーターでしょ?みたいな風潮があったんですよ。今とは風当たりも随分違って、お客さんに会いに行く時にバカにされたり取引できないとかも言われた経験がある。そういう積み重ねもあり、タイミングも良かったので、個人事業主の延長みたいな形で会社設立を決めましたね。

設立にあたっては、当時の税理士の方がTwitterのプロフィールに「FF(Firefox)とiPhoneが好き」と書いてる変な方でITリテラシーが非常に高く、多岐に渡るアドバイスをしてくれたので心から助かったんです。

―― 設立と同時に、「アナグラム株式会社」という社名も決められたかと思うのですが…社名って悩みそうですよね。どう決めましたか?

そりゃあ悩みましたよ。阿部オフィスとかにしちゃうとやばいなどうしようと考えあぐねて、Twitterで呟いたんですよね。そしたら、クリエイティブホープの大前創希さんから「うちはブリジストン方式で決めたよ!」と。石橋⇒橋・石⇒ブリッジストーン⇒ブリジストンの要領で創希⇒創・希⇒クリエイティブ・ホープと命名したようで感動したけれど、あれ、僕の名前だと阿部?…クラブ?とまた迷走。 そんな時、たまたま仲良くさせて頂いていた某代理店の方に「名前のアナグラムで決めてみては?」と言われて、おや?アナグラム?あ行?とやたらしっくり来たんですよね。当時あ行の企業さんと一緒にお仕事することが非常に多く、あ行にしたい気持ちがあったんです。

アナグラムの意味は「言葉を入れ替えて別の意味にさせること」。お、これ、うちの仕事じゃん!仕事に直結しているな!とハラオチして、ドメインを探したり同じ名前の企業が無いかを確認した上で、アナグラム株式会社に命名決定しました。まぁ当時の職業病ですね。

―― 由来の裏話が聞けて一社員としても感慨深い思いです。こうしてアナグラムが立ち上がったわけですが、社員第一号の田中さん参画までは数年空きがあります。その間、阿部さんお一人の状態が続いたんでしょうか?

たまたま市場が伸びていたのと、良いお客さんに恵まれたこともあって、設立から3年近くは一人で個人事業主の延長をしていました。幸いにもブログ経由の問い合わせでお仕事の相談を頂くことが多かったですね。

バッターがバッターボックスに立ち続けることの大切さは以前Marketeer(マーケティア) で濱本さんが言っていましたが、ブログを書き続けることは『力』に結びつくと個人ブログを運営していた当時から、法人ブログをみている現在でも感じています。ちょこちょことタケノコみたいにリスティング広告に関連するブログは出てきていたんですけど、ほとんど3日~1ヶ月で更新止まるんですよね。次第に「~と思います」とか文言が曖昧になってくると、ああ、このブログも永くないなと…見守っていました。

―― 阿部さんのブログというと『SEM-LABO』ですが、始まりはアメブロだったということで、そもそもブログを書き始めたきっかけはありますか?

アメブロは恥ずかしくてもう消しちゃいましたけどね。ブログを始めたきっかけは「TD」と検索した時に答えが出てこなくて、公式ヘルプは英語を直訳していたので捉え方が違うし情報も古い。当時のYahoo!に至ってはヘルプすらない。問い合わせをしても都度違うことを言われるので、当時は『公式ヘルプは信じるな』が通例だったんですよ。今となっては信じられないでしょうけど。

世の中でリスティング広告の情報を発信している人がほんとうに少ないんだと実感していたから、自分が学んだリスティング広告に関することをアウトプットするために書き始めました。元々は誰かに見てもらうために書いてたんじゃないんですよ。

今でも覚えているんですが、一回目の記事に「必ず書籍を出す。記事をまとめた内容の本を出すため。1日も休まず」って書いてて、実際3年間土日も休まず実行し続けました。

内容はリスティング広告と書評。本を読んで気になる部分には赤線を引き、赤線の部分を写経的に書き写してそのフレーズを覚えるように当時からしています。はじめは手書きでメモを取り出したけれど、自慢じゃないんですが僕は致命的に字が汚くて自分でも読み返せないレベルなんですね。これは効率が悪いということでタイピングに切り替えてメモ帳に保存してDropboxで保管。リスティング広告にまつわる話題がそこまで無い時は、書評ストックという名の逃げ道で、毎日更新するようにしました。結果的にそれがウケてたみたいで、書評だけ読みに来るマニアックな人もいました。

―― ヘルプさえ信じられないような時代とあっては、阿部さんの毎日更新されるブログはリスティング広告運用者にとって光明だったんですね!お仕事がブログ経由で入ってきて、社員もいないとなるとご自宅でお仕事をしていたのかなと思うのですが…。

当時は株式会社JQさんと同じ浅草橋のオフィスにいましたよ。当時JQさんの方々は本社が埼玉県にあったので、東京オフィスには元Yahoo!のエンジニアの取締役しかいないし、こっちは一人だしで数年40㎡の1ルームで一緒に過ごしていました。

JQさんの創立メンバーはアクセンチュアとYahoo!出身で、コンサルティング畑の人やエンジニアサイドの人たち。こっちはマーケティングの専門性がある。お互いに無い能力を補完し合える関係で、当時の僕にはこの環境が本当によかった。共通のクライアントを持つことでその相性はより確立化されていきました。

あの頃は、楽しいことと言えば仕事、とにかく仕事で、365日4時間睡眠フル稼働。1人でどこまでいけるのかを勝手に追求してました。今となっては全く推奨しませんが。。。

PCと携帯電話があれば全国どこでも仕事ができる身軽さもあったので、2011年3月の東日本大震災を一つのきっかけにして、このあたりから全国出張セミナーもはじめましたね。きっかけは初めてセミナーで登壇したときに、緊張しすぎて何話したか分からないけれど評価は高くて本人的には腑に落ちない状態だったこと。

自分をコントロールした上で人前で話すには、数をこなして経験を積むしかないなと確信したので、現在は攻城団を運営されている河野さんの全国出張セミナーを許可を得て真似しました。話すスキルはここで身につけましたね。

先程バッターの話をしましたが、どれだけ綿密にシミュレーションしても一番効くのは本番で、練習試合にいっぱい出るよりも、打席にどんだけ立つかの方がよっぽど大事なんですよね。

―― 全国出張セミナー時代もお一人だったのですね…。すっかり社員がいるものと思い込んでいました。なかなか現れない社員第一号の田中さんですが、出会いはどこだったのでしょうか?

今はAdWordsコミュニティーにいる小西さんが運営しているSEMカフェの1回目の勉強会ですね。その頃の田中さんは前職でバリバリ広告運用をやっていたけれど、マネージャーに昇格してマネジメントに徹するために広告運用を手放さなくてはならない…というタイミング。誰よりもロジックがしっかりしていて僕に足りない部分を持っていたので、一緒にやりたいなと思い、前職に在籍したまま新規のアカウント構築を一緒にやらないかと声をかけたのが始まりです。

一緒に取り組んだ最初の案件が、70万を超える莫大な量のキーワード入稿が必要でやることは無限にあるようなアカウントでした。マンパワー的に1人だとしんどいなあと考えていて、週末オフィスや僕の家に田中さんが来てくれて一緒にキーワードの入稿とかをしたんですが、結果すごく楽しかった。人と一緒に働くっていう選択肢があるんだ!と思い、会社に誘ったんですが敢えなく断られて。

―― あれ?

あれ?って思いますよね。それから何ヶ月後かに、やっぱりやりたいです!と言ってもらえたので晴れて社員第一号が誕生しました。そこから半年後に二人入社して、そのうちの一人が現・取締役の竹内ですね。もう一人は会社を離れてしまい、次のメンバーが入るまでは僕・田中さん・竹内の3人で給料明細を渡すのは隅田川の河川敷で、毎月スカイツリーが日に日に大きくなっていくのを目の当たりにしながら楽しんでやってましたね。

―― 次のメンバーが入社してから、ポツポツと人が増えていったんですね。長い間、一人でお仕事をされていたと思いますが、少しずつ社員が増えていったことについてはどう考えていたのでしょうか。

4~5人の時は、万が一会社を閉じることが起きたとしても、自分の資産を切り崩して渡したら1年くらいで再就職先見つかるし、見つけてあげられる、なんとかなる!みたいな気持ちで居たんですよね。雇用した人に対する責任と人を雇用する覚悟が至らなかったので、10人くらいのとき本格的に悩みだしました。

そんな時、一方的に価値観が近いなと感じていたトライバルメディアハウスの池田紀行さんが、同じくらいのタイミングで社員数を30人くらいまで増やしたんですよ。なんでだろう?と聞いてみたら、「10何人だったら、自分の資産を切り崩して謝り倒せばいいと思ってけど、20人越えたらそんなのできないし。30人になったら、もう土下座して謝るしかない。でも、そう思えたら一周まわって腹がくくれた」と。そこにハラオチしました。社長の器に比例してしか会社は大きくならない、とよく言いますが、この時に自分の社長としての器が広がったなと感じたんです。

あとこれは師匠の受け売りなんですが、「周りが幸せだったらそれでいいじゃないか」と言う考えから、「世の中に価値あるものを提供したい」という意思が芽生えてきた。僕らが完璧主義だったがゆえに今まで見過ごしていたけれど、おこがましい話ですけど、実は救えた企業ってこれまで沢山あったんじゃないのか?と思うようになったんですよね。

それまでは人の採用だったりアカウント構成だったり、100%正しいものしか許せなかったけれど、世の中の平均が僕ら基準で60%だとして、会社として提供できるクオリティーの水準が80%ならそれは世の中にとって良いことなんじゃないかと許容できるようになって、会社が拡大できるようになったなあと実感しています。

自分の正解が必ずしも世の中の本当の意味での正解じゃないと気付いたんです。

 

―― 阿部さんの中で雇用をはじめ、会社としての基準が明確に定められたのですね。ここ1年間は社員数も2倍近く増えて40人強と拡大していますが、今後こうしていきたいという展望などを最後にお聞きできればと思います。

現実的な話をしちゃいますけど、組織運営にドラスティックな事なんてほとんど無いんですよ。うまくいっている時こそ基本的に今までの繰り返しで、採用や案件獲得などの精度を学びつつ、更に引き上げてより社会に大きな影響を与えていきたいです。

これってシンプルなんですけど、不思議なほどに殆どの人は途中で離脱します。だからこそバッターボックスに立ち続けるのが大切。だからといってただバットばっかり振ってたら飽きちゃうし、比喩ですが筋トレしたりストレッチしたり、地固めも意識的にしていきたいなと思ってます。日々勉強です。

編集後記

断片的に話を聞くことはあったものの、どこかヴェールに包まれていたアナグラム創業秘話。

リスティング広告と出会った切っ掛けからアナグラムの今後の展望まで、ノンストップで語る阿部さんの目はキラキラと輝いており、アナグラムへ参画している一員としてもワクワクすると同時に、黎明期から今に至るまで、リスティング広告を牽引してきたといっても過言ではないのだと改めて感じました。

インタビューの結びでは、「今後社員がますます増えていく中、会社として提供できるクオリティーを担保しながら世の中にどう価値を出していくか、という試行錯誤を続けていく」と断言された阿部さん。

組織運営はシンプルだからこそ、気を緩めることなくバッターボックスに立ち続けられる仕組みづくりを行いたいと熱く話されていました。取材班一同も、アナグラムの一員として改めて身が引き締まる思いで、運用型広告を通じて「必要な人と与えたい人を”繋げる”」ことに切磋琢磨していきたいと感じます。